本能寺の変 427年目の真実 明智憲三郎 著 プレジデント 社
信長大好きな自分には非常にたまらない本でした。
明智光秀の子孫と伝えられる、筆者が先祖の謎を解くために書いた本。
構造は7つの謎を基点に捉え、検証を実証していくという筋になっています。
このような切り口があるのだなと感心しました。また、この洞察力は会社経営にも
役にたつのではないかと思います。
第1 謀反の動機
証拠や資料が極端に少なく、それこそ謎だらけであるのもかかわらず、光秀は信長に
対する永年の個人的な恨みと天下取りの野望のためだけに本能寺を襲った、という信じがたい
ストーリーが定着しているのは、なぜでしょう?
第2 なぜ、信長はあれほど無警戒で本能寺にいたのか?
わずか、20-30の供回りしか連れてきておらず、無裸同然の無警戒状態。
特に最も近距離にいた光秀の軍勢に完全に心を許した状態で、光秀に絶対に
謀反はありえないという確信は一体どこから?
第3 なぜ、光秀は本能寺の変をやすやすと成功させ得たかのか ?
冷静に考えて、ミスが許されない謀反で下記全てをうまくこなすには疑問がある。
本能寺を急襲して信長を殺し、二条城で嫡男 信忠を殺し、
かつ安土城を一気に攻め落すためにはたくさんの障害がありました。
光秀はこの確信をどこで得ていたのでしょう?
第4 家康の安土城訪問とその後の上洛がなぜあれほど無警戒だったのか?
宿敵の武田が滅びたあとに、逆に目障りになった徳川家康。
家康自身や世間もその事実が認識されていた。しかし、
家康は重臣を引き連れて、ほぼ裸同然で安土城を訪問し、
京都、奈良を見物しています。
危機管理能力に徹する家康がなぜ、このような行動にでられたのか?
第5 光秀の政権維持策
襲撃が成功しても、政権が維持できずに短期間で崩壊したのでは謀反の意味がありません。
光秀の謀反が短時日で終わってしまったという事実のために、歴史研究でも光秀は
無策のまま襲撃的に謀反を起こしたと考えられていますが、本当でしょうか?
生き残るための謀反であるのに、生き残る策がたたない限り踏み切れなかったはずです。
第6 本能寺の変の後、急遽境から三河に戻った家康の行動。
帰国を果たした家康は、すぐさま織田領となっていた甲斐、信濃に侵攻しました。
にもかかわらず、このことは後日、誰からの咎めを受けなかったのはなぜでしょうか?
織田領を火事場泥棒的に奪い取った家康をなぜ、秀吉、信雄、信孝兄弟も
攻めなかったのでしょうか?
第7 秀吉の「中国大返し」がなぜあれほど成功したのか?
これも現実には成功しているため、歴史の語り草として秀吉を賞賛する1つとして
されていますが、常識的に考えて謎が多すぎる。
本能寺の変を知ってすぐに、膠着状態の毛利と和睦し、
軍隊の移動スピードを驚異的に超える行動。
なぜ、毛利が攻めてこなかったのか?
多くの、京都、近郊にいた武将が光秀につかずに、秀吉側についたのか?
そして、兵を返して13日には山崎の合戦で光秀軍を打ち破りました。
>
家康は光秀に恩返しするために、家光3大将軍を擁立。
家光名前の由来は、家は家康より、光は光秀より。
家光の乳母には、
光秀の片腕であった斉藤利三の娘福、のちの「春日局」を登用、
家光の正母はお江与はお市の娘なのでいわゆる仇の娘が乳母です。
当時としては、絶対に考えられない構図。
また、日光東照宮の守り役として、猿=秀吉、織田がいて、
景勝地は「明智平」と呼ばれる場所があり、秀吉、織田よりよい場所に名前を使っている。
本能寺の変のあたりは、密約、裏切りが多く渦巻いて歴史が流れたので、
そのことは、「見ざる、言わざる、聞かざる」で平和をな時代を過ごしましょうという暗示がある。
コメント