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Writer's pictureTony Liu

池上彰の宗教が分かれば世界が見える 池上 彰著 文春新書

池上彰の宗教が分かれば世界が見える 池上 彰著 文春新書

宗教は「よく死ぬ」ための予習です。

P53 

アメリカでは、大統領がキリスト教徒でないなど、あってはならないことと考えられている。

大統領とは、キリスト教の宗教国家であるアメリカの代表だからです。

>増加するイスラム人口

カトリックでは避妊は禁止なために、カトリックは大家族が多い。

ユダヤ教徒も同じ ひたすら経典ばかりを読んでいて多くの子供を引き連れています。

イスラム教では、セックスは神が与えてくれたものだから十分楽しめ。

しかし、姦通は極刑です。楽しめ、しかし家庭を壊さないように。

ヨーロッパから見るとイスラムの脅威とは、イスラム人口の増加です。

P66

私は、宗教を考える事は良く死ぬことだと思っております。

宗教は「死のレッスン」と言った人もいます。つまり、どう死ぬかという予習なのです。

よりよく死ぬとは、より良く生きることでもあります。

よりよく生きれば、従容として心穏やかに死を迎えられる。

P71

大学時代の友人が死んで、奥さんが直葬(葬儀を開かず身内のみでそのまま火葬場へ)してしまった。

そのために、奥さんに「葬式に行きたかったのに」と言うと

「では、骨を渡しますので、皆さんで管理をして下さい」と言われました。。。

遺骨を残すことに今、どれだけの人が苦しんでいるのかが分かった。

勝手に撒くわけにはいけないし、墓に入れなければならないが、墓がなければどうすればいいの?

また、お金も相当かかるし、その後の管理も相当かかる。

今の時代にその管理は負担が大きい。

P75

すべての宗教人口をあわせると 人口の約1.6倍になる。

また、この数字は過少申告している宗教団体もあるために、実際は増える可能性がある。

P88

今の社会は、平安時代と江戸時代につぐ第3の長期安定期と言えるんじゃないでしょうか。

自然災害はあるにせよ、戦争は起こらないし、経済もそんなに発展しない。日本は超成熟社会だから

この状況がたぶん200年、300年と続いていく。

P97

たいていの宗教は、この世の始まりから終わり、この世界の仕組み、さらには見えない世界も含めて

全てを説明しようとするのですが、仏教は、経験則や臨床実験から大きく外れている領域を

語ることには非常に慎重です。宇宙の終わりとかそういった問題については基本的に語りません。

P105 仏教では、「とらわれない」のが究極の目的

もともと仏教はヒンドュー文化を土壌として誕生しました。

輪廻からの解脱という構図や、聖者は出家するという仕組みもヒンドュー文化圏の特徴です。

仏道は、「生きるということは、苦である」といった自覚から始まります。

この場合の苦とは「思い通りにならない」という意味。

そのために、現実をコントロールすることはできないので、「思い」の方を調える。「思い(執着)」

が強ければ強いほど、現実との落差は大きくなります。

つまり苦悩が強くなるわけです。身体を整え、思いを整え、言葉を整え、生活を調えるトレーニングを

実践するすることによって、執着を小さくすれば、苦悩も小さくなる。

究極的には、執着をなくしてしまえば、苦悩もなくなってしまう地平を目指します。

仏教とはそういう宗教です。最後には仏教まですてなさいという恐ろしい教義。

P109 宗教には「幸福の神議論」と「苦悩の神議論」がある。

宗教社会学者のマックス・ウェーバーによれば、宗教の教義には

「幸福の神議論」と「苦悩の神議論」がある。

前者は主に仏教で、例えば、

苦しいと愚痴を言っている人がいれば、「実は君は今幸せなのではないか?」

今を喜びなさいと説く。

一方、後者はなぜ、こんなにひどい目にあうかを説明するタイプ。

キリスト教はこの傾向が強い。迫害を受ければ受けるほど、自分の信仰は

正しいという理路を持っています。

仏教の中でも、日蓮は後者にはいるが、仏教では、そういう苦しい傾向がない。

P141 ニューギニアの遺骨の上で

若くぶらぶらしていたお坊さんの話。

無文老師という戦時中に、兵士を鼓舞する法話をされていて、それに

対して強い悔恨の念を感じていたお坊さんがいた。

戦争で亡くなられた人達への慰霊行は自分の

役割だと考えられ、高齢をおして南太平洋方面の慰霊のたびを続けられていた。

そして、老師がある日、若くぶらぶらしているお坊さんに、「ついてこい」と言い、

若い坊さん、目的も分からないまま、ただ、海外に行けるということでついていきました。

そして、最初にニューギニアのビアク島のある洞窟で一気に千人以上の日本人が

焼き殺されたという場所に行き、お経を読み上げ始めました。

高度経済成長のど真ん中で日々の快適さを享受し、

いのちの意味や人間の苦しみなど深く考えなかった当時の私の足もとに、

家族や愛する人を思いながら、苦しみの極みの中で息途絶えた兵士たちの遺骨があったのです。

それを私は踏んでいました。体中に戦慄が走り、たっているのがやっとでした。

震える声でお経を読んでいると、私の後ろで同行されたご遺族の方の泣き声が聞こえました。

そしてそれは次第に号泣に変わり、その方はそのまま泥水に身を屈し、泣き崩れたのです。

その方の夫は結婚3ヶ月で出征し、戦後、ビアク島で戦死、という公報を受けたといいます。

散在する遺骨の中に33年前に出征した夫がいる。そのときの夫の苦しみ、

戦後の自分の苦しみも含めてすさまじい泣き声を上げられておりました。

その号泣を聞きながら私は、お経を読む事ができませんでした。老師からは、

「しっかり読め」と叱咤されましたが、読めませんでした。。。

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